「神があなたに才能を与えるとき、鞭をもあなたに与える」とは作家カポーティの言葉だ。天才の苦しみは凡人に計り知れないらしい。しかし、天才よりも辛いのは、才能を見抜く目を持ってしまった秀才ではないか。ただの秀才であれば、自分の能力を疑うことがない。鑑識眼を持ってしまった秀才は、神に愛された天才との違いに気付いてしまう。それは自分の寄る辺を危うくする。この手の秀才の悲劇を描いた名作が、映画『アマデウス』であろう。天才作曲家モーツァルトに嫉妬するサリエリの苦悩が、余すところなく描かれている。
科学界にもアマデウス的な組み合わせは少なくない。英国の化学者デーヴィとファラデーの師弟関係を挙げてみる。英国科学界の頂点に立ったデーヴィは、弟子としてファラデーを雇った。そのファラデーは予想外に才能を発揮した。師は焦り、弟子への妨害が始まる。なぜデーヴィーは大きく構えていられなかったのだろう? それはファラデーの才能を誰よりも見抜いていたからではないか。
死の間際、デーヴィーは「私の生涯最大の発見は、ファラデーを発見したことだ」と呟いた。サリエリは映画の最後にこう言う。「私は凡庸なる者の守り神だ」と。両者ともある種の諦めを通じ、心を軽くしたのかもしれない。
天才でも秀才でもない私は、この惑いとは無縁で気楽だ。しかし、科学に憧れる者として、天才・苦慮する秀才の双方のファンとなり、応援する立場でいたい。
平成21年6月23日(火)掲載